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喜和田鉱山の物語


広島に転居して30年になりますが、ようやく広島の街に慣れることが出来た頃に、こちらの施設に参りました。
元々はここに鉱山が有ったとのこと。そして当時は日本一の産出量を誇っていたタングステン鉱山だっとことを知りました。

タングステンと聞けば=電球のフィラメントの材料…と条件反射的に。でも、それ以上の事は?でして、それが国内の何処で産出されているのか等々全く存じませんでした。


私の生まれ故郷は愛媛県西条市ですが、こちらには輝安鉱が産出されていた市之川鉱山が有りました。
学生の頃、地学には興味が有りましたが…お勉強となりますと拒否反応が生じて参りまして💦 でも気軽にこれらの情報を拝見するのは興味津々でした。
玖珂鉱山はレジャー施設に姿を変えましたが、喜和田鉱山は(閉山しているとは申せ)鉱山守りの方が活動をされている・・・との情報を得ることが出来ました。

初めて同鉱山の事務所(鉱石資料館)にお伺いさせて頂きましたが、昭和の香り漂う小学校を思わせるご立派な建物にビックリ致しました。
そして中に入って、再度ビックリ!・・・と言うか驚嘆でした。(*^-^*)
マニアックな理科室・・・と申せば宜しいのでしょうか?でも私の様な(単に鉱”石”に興味が有るだけという)ド素人でも、存分に楽しむ事が出来るステキな仕掛けで満ち満ちていたのでした。
何よりも、その理科室の主・長原正治さまと奥様の知子さんのお優しいお人柄に、即惹き込まれてしまいました。

元鉱山にお勤めだったお方ですので。何となくちょっと気難しさの残る一徹な方・・・・という先入観を抱いてしまっていたのですが。
正治さまは、本当に気さくなとってもお優しさの溢れるお方でした。
そして奥さま・知子さんのご挨拶・・・・「おいでやす」「おおきに・・・」・・・・自然体のママの京都弁。仰天しました💦💦 
そう言えば、外に停められたお車は「京都ナンバー」だったですね。・・…当時、毎週末は帰京されて平日は鉱石資料館でお仕事をなさっておられたと伺いました。
誠に失礼ながら正治さまのご経歴を・・・・・実は、京都で研鑽を積まれた学者さんだったのですね。
「数10cmの岩盤に隔てられていた鉱床を見付けることが出来ました・・・」とお話しをされる長原さまのお姿が印象的でした。
数10cm・・・・庭の土を掘るのとは次元が異なり過ぎますよね。綿密な探索の繰り返しでようやく見付けることが出来たのでしょうが、私にはそれがどれ程のご苦労がお有りたのかは、想像すら及びません。
(貴重な情報を拝借させて頂きます)


喜和田鉱山 その1
喜和田鉱山 その2


各種の鉱石が切り出されて来て、それを製錬することで立派な工業製品の材料になる・・・そんな光景を見ることはございましたが。
実際に坑道に入られて大小さまざまの(鉱物を含有する)岩石を採集された後・・・(いろいろな工程を経て)運搬車両に乗せられて、ようやく外界の世界に登場する。
厳しい危険を伴う環境の中で工夫さまのお蔭で、ようやく鉱石を利用することが可能になるのですね。・…大変に貴重なる画像を拝見させて頂きました。

その後、諸般のご事情で鉱石資料館は閉鎖されましたが、その後事に付きまして。
文春オンラインさまの方で情報を拝見させて頂きました。